10月はコスモスが満開の季節です。可憐なかわいらしい花で大好きなのですが、コスモスを見ると、遠く離れてしまい何もできないまま一人寂しく亡くなってしまった母への後悔の気持ちで胸が苦しくなります。
私事ですが、10月は母の誕生月であり、亡くなった月でもあります。
いくつになっても少女のように愛らしく、コスモスの大好きな母でした。
いつも「大好きなコスモスが満開の月に生まれて幸せよ」と、言っていましたが最期も同じ月で本人はきっと満足だったのではないかと今は思います。
私とは違いとんでもなくミーハーでした。生前の写真を見ると、お付きの方々がいるはずなのに、いつどうやったらこのような方々と写真を撮ることができるのだろうかと不思議なくらい、たくさんの方とのツーショット写真が出てきました。俳句と読書好きが功を奏したのか、アタックチャンスの司会をされていた児玉清さんとは親交があったようで手紙・はがき・お互いやり取りした物のメモ書きなどが後生大事にとってあり、ミーハーもここまで来たら大したものだと感心したものです。
心臓病を抱えており、遠く一人で暮らしていたゆえ何かと不安があったようで、
「あなたに迷惑をかけないようにポックリ逝きたいな」
「余計な延命は絶対しないでね」
何度聞いたかわからないぐらい、口癖のように私に言っていましたが、ある意味その願いが叶ったのか、ある夜ベッドに入りそのままでした。発見は二日後です。
葬儀の時も、今にも起きて来そうなくらい眠っているかのような穏やかな優しい表情のままでした。残念なことに母の死の連絡を受けて直ぐに駆けつけることができず、私が到着したのは次の日の夕方で、すでに母は棺に収められ葬儀場に安置されており、抱きしめることすらできませんでした。最後に母を抱きしめ「ありがとう・ごめんね」が言えなかったことがいまだに悔やまれてなりません。
かねがね母の最期の時は私がきれいに化粧を施し、季節が合えば棺の中と祭壇はコスモスで埋め尽くしたいと思っていましたが、その日はなぜかコスモスが入荷されず、わずかばかりのコスモスを入手するのが精いっぱいでした。
母のような最期を迎えた場合、事件性がないか警察が介入してくるのですが警察の方が帰りがけに、「このような一人暮らしのご老人の部屋は足の踏み場がないほどに散らかっているのものなのに、こんなに整理された部屋は初めてですよ」と言って帰っていかれたそうです。
もともと整理整頓が好きな性格でしたが、物にあふれた生活をしていると自分がいなくなった後、残された家族が迷惑だからと、必要最低限の物以外はすでに処分していました。たくさんあったはずの衣類は、お世話になった人にほとんどをあげてしまい、箪笥もクローゼットの中もスカスカになっていました。いつ訪れるかしれない『その時』に備えて毎日毎日、部屋の中を整理していたようです。そのようなことを私に話したことがあり、返答に困り茶化して話を遮ったことがありましたから。
ある日電話でうれしそうに、
「今日はね、タオルがたくさんあったからいつも近くにいるホームレスの人にあげてきたのよ。そしたら、いつもありがとうってジュースをもらったの!」
人類皆お友達の母はいつの間にかホームレスの人ともお友達になっていました。
70歳を過ぎた頃より物に対する欲が全くなくなり、日々穏やかに過ごせることに幸せを感じていたようです。毎日川沿いを散歩し、草花や鳥のさえずりに季節を感じ、道行く人との何気ない会話を楽しむ毎日を好んでいたようです。その道すがら自分の終わり方を考えていたのかも知れません。メモ書きの中から一通の封書が出てきました。病気になった時には延命をしないでほしいという内容で切々と思いが込められた嘆願書でした。
その封筒の中には1枚の写真も入っていました。毎年足しげく通った宮崎の生駒高原のコスモス畑で撮った写真です。遺影に使ってほしいという一文が添えてありました。
最近になり【終活】という言葉をよく聞くようになりましたが、その先駆けの人でした。恐らく自分では【終活】という意識はなかったと思います。ごく自然に、今後の在り方を考えた結果の行動だったような気がします。
以前、ある患者様が毎回必ずメンテナンスに来られるのに何の連絡もなく来られなかったことがあります。気になり連絡したところ、
「不細工なことをして申し訳ありませんでした。先が見えてきましたので家族に迷惑にならないようにと思い、身の回りの物を片付けているところで、すっかり忘れていました。」とのこと。この患者様も母と同じ思いで毎日を過ごしているのかしらと思うと胸がいっぱいになり、返す言葉が見つからずに取り敢えず次のご予約をお取りして受話器を置きました。
私もいずれ訪れる最期のとき。まだ先のことではありますが、時期が来たら娘たちの負担を可能な限り最小で済むように考えていきたいと思います。
母を見習って・・・。